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はじめに−−なぜ、コケを?

 きのこを菌類として学び始めたのが2001年、ようやく初心者の域を出た。2006年7月、滋賀県御池岳で、コケ層からケシボウズタケ属が出ていた。これを契機に、コケ世界に首を突っ込むことになった。コケに関する知識は皆無に等しく、数十年前に学んだ高校生物の教科書の範囲がすべて。まずは、ひとつ一つコケを知りたい。これは [自分のための覚書] である。

 きのことのかかわりは十数年になるが、菌類として学び始めたのは比較的最近で、2001年のことである。最近になってようやく、きのこに関しては初心者の域を出たと思う。ここ数年はもっぱらケシボウズタケ属 Tulostoma の分布と生態を追いかけてきた。今年(2006)年7月、滋賀県御池岳で、瓦礫帯のコケから Tulostoma が出ていた。瓦礫帯を構成する石灰岩群は一面に絨毯を敷き詰めたように、鮮やかな緑色の蘚類に覆われていた。そこに出ていた Tulostoma は、T. fulvellum という国内では未知のものだった(報文要旨)。コケの上に顔を出している姿は衝撃的だった。
 コケは周囲の土をベースにして、累々と重なる石灰岩をすっぽりと包み込むように、厚い層をなして広がっていた。Tulostoma の出ていた石灰岩上のコケをどけてみると、その下には、ほとんど土らしき土はなかった。石灰岩の上に厚くコケが這っている状態だった。Tulostoma の発生していた基物であるコケは大事に持ち帰って、菌糸の広がり具合を調べた。不思議なことに、持ち帰ったコケの間には Tulostoma の菌糸はほとんど拡がっていなかった。
 このときの情景を、「水気をたっぷり含んだマゴケ」と書くべきところを、うかつにも「ミズゴケ」と書いてしまった。このコケはトヤマシノブゴケ Thuidium kanedae であった。千葉県立中央博物館に古木達郎博士を訪ねて、同定していただいた。また、この折りに、同定する場合のポイント、この属の内部でのトヤマシノブゴケの位置などを教授していただいた。
 一般にきのこの寿命は短く、形態を保っている時間は、一晩から数日のものが多い。ある日突然現れて、直ぐに消えてしまうということから、西洋でも昔から気味の悪い存在として捉えられていた。それに対して、Tulostoma の寿命は長い。条件さえ良ければ、数ヶ月から半年以上も発生時の形態を保っている。発見した Tulostoma がはたして何時発生したのか、を知ることは、その生活史や生態を知る上で不可欠となる。
 時間を経た Tulostoma の頭部には、しばしば緑色の生命体が着生する。発生から少なくとも数週間から1ヶ月以上経ったものに多い。過去これらの多くは緑藻類であった。緑藻の育ち具合や、Tulostoma の風化の具合で、発生からの時間経過を推定することができる。ある時、緑色の生命体を検鏡してみると、そこに見えたのは緑藻ではなく、蘚苔類の原糸体であった。蘚苔類が付くのは、一体どのくらいの時間経過が必要なのだろうか。
 これらのことが契機で、いつかはコケについて真剣に学ぶ必要があると感じるようになっていた。ちょうどそんな時に、トヤマシノブゴケをミズゴケと書いてしまうという愚行を犯してしまったわけである。これが契機となって、コケ世界に首を突っ込むことになった。
 生態や生活史を知るには、種の同定は絶対に避けて通れない。種名すらはっきりしないのに、コケが相手の研究を積み重ねても、砂上の楼閣を築くに等しい。これまでコケに関する知識は皆無に等しく、数十年前に学んだ高校生物の教科書の範囲がすべてであった。コケについて知るためには、基本的な文献から基礎的な概念や述語などを習得することとあわせて、身近なコケや代表的なコケについて知らねばならない。
 図鑑や写真集を何度もながめてそこに登場する名前を覚えるのも一つの方法だろう。しかし、記憶力が人一倍悪く、理屈抜きに呪文を覚えることが大の苦手ときている。したがって、そういった方法をとっても何ら得るところはない。となると、一つひとつていねいに観察するなかから、その一つを通して、少しずつ視野を広げていくしかない。そこで始めたのが、「観察覚書」である。つまるところ、このサイトのすべては [自分のための覚書] である。

2006年9月