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[標本番号:No.499   採集日:2008/08/09   採集地:栃木県、那須町]
[和名:ネジレゴケ属   学名:Tortula sp.]
 
2008年9月8日(月)
 
(a)
(a)
(b)
(b)
(c)
(c)
(d)
(d)
(e)
(e)
(f)
(f)
(g)
(g)
(h)
(h)
(i)
(i)
(j)
(j)
(k)
(k)
(l)
(l)
(m)
(m)
(n)
(n)
(o)
(o)
(p)
(p)
(q)
(q)
(r)
(r)
 8月9日に栃木県那須の北温泉(alt 1100m)で、「打たせ湯」の内壁(a)や「天狗の湯」の給湯管周辺に暗緑色の蘚類が厚いマット状に群生していた。いずれも、摂氏45〜55度の源泉を頻繁に浴びる位置である。宿の主人の好意に甘えて採取させていただいた(b)。
 茎は赤味を帯び直立し、長さ2.5〜3.5cm、あまり分枝せず、葉をやや疎につけ(b, d)、乾燥すると葉がやや縮れる(c, e)。上半部の葉は緑色だが、下半部の葉は褐色となり藻類などがまとわりついていて、仮根は少なく、無性芽のようなものは見られない。
 葉は舌形〜ヘラ形で、長さ2.5〜3mm、葉頂は広く尖り、葉縁は平坦でほぼ全縁(f, g)。強い中肋が葉頂に達し、葉頂周辺にはわずかに微細な歯がある。葉の下部は竜骨状となって茎につき、葉縁の下部は軽く反曲する。10%KOHに30分以上浸しても、色の変化はほとんどない(h)。
 葉身細胞は、葉頂部では菱形〜多角形で、長さ6〜8μm(i)、葉身上半部では多角形で、長さ10μm前後(j)、いずれも表面には4〜7個のパピラがある(m)。葉の中央部あたりでは、葉身細胞は方形〜矩形となり、長さ10〜15μm、パピラが4〜7個あるが、上半部のパピラと比較して背丈が低い(k)。葉の基部では、葉身細胞は横長の矩形となり、長さ20〜30μm、幅8〜10μm、表面は平滑である(l)。
 葉の横断面をみると、パピラは背腹両面にあり、中肋部分の表面にもパピラがある(n)。中肋にはガイドセルがあり、背腹両面に明瞭なステライドがある(o)。茎の横断面には中心束があり、表皮細胞は髄部の細胞と比して小さい(p)。
 葉の中には、表面に糸状ないしひも状のものが多数ついていた(h)。念のために確認してみると、このひも状のものはどうやら無性芽ではなく、藻類のようだ(q)。葉の基部や葉腋にも無性芽などは見られない(r)。なお、朔をつけた個体は一つもなかった。

 茎が直立、葉は舌状でほぼ全縁、葉身細胞は上半部では方形でパピラをもち下半部は大きめの矩形、中肋にはガイドセルがある、などの特徴から、センボンゴケ科 Pottiaceae だろうと思う。やや似た葉身細胞をもつものにタチヒダゴケ科 Orthotrichaceae の蘚類があるが、植物体の大きさや発生環境などがまるで違うので、考慮の必要はなさそうだ。
 平凡社図鑑にはセンボンゴケ科の特徴として「幅広い環境に生育するが、とくに石灰岩地域に多い」とある。本標本の採取地は石灰岩地ではないが、温泉のコンクリート壁を中心に群生していたので、いわば石灰質上に生育していたといえなくもない。
 同図鑑で属への検索表をたどってみた。観察結果から、同図鑑80頁の「E. 体は小形〜大形、長さ3mm以上」までは間違いなさそうだ。無性芽を見落としている場合も考慮して以下検索表をたどると、ネジレゴケ属 Tortula とクチヒゲゴケ属 Trichostomum が候補として残る。
 クチヒゲゴケ属の解説を読むと、茎の横断面で表皮細胞は大形で薄膜とあり、葉腋毛があるとされる。日本産3種とされ、そのうちチジミクチヒゲゴケだけに説明がある。種への検索表も参照したが、どうやらこの属ではなさそうだ。そうなると、残るのはネジレゴケ属だけとなる。
 ネジレゴケ属の検索表をたどると、エゾネジレゴケ T. obtusifolia だけが残るが、平凡社図鑑には、解説されていない。Noguchi "Moss Flora of Japan" にも掲載されていない。さらに平凡社図鑑に掲載されているネジレゴケ属2種をみると、いずれも茎の長さは5mm以下とある。となると、ネジレゴケ属という判断も怪しいことになる。とりあえず、センボンゴケ科として取り扱わざるをえない。何かを見落としているおそれが大きい。

[修正と補足:2010.06.21]
 「ネジクチゴケの仲間に近いように思えます。」とのコメントをいただいた。そして、ケネジクチゴケ Barbula subcomosa の可能性も示唆してあった。採取からほぼ2年近く経過しているが、再検討のために再び取り出した標本は水で戻すと再び鮮やかな緑色となった(s, t)。あらためて、主に以下の5点について再度観察した。

(1) 無性芽はどこにもにないか
(2) 葉腋毛はほんとうにないか
(3) 葉縁は反曲しているか
(4) 中肋の表皮細胞はどんな形か
(5) 葉の表皮細胞の様子の再確認
 任意に選んだ10個体ほどを用いて、茎の上部から下部、仮根の周辺もかなり徹底してみたが、やはり無性芽もなければ、葉腋毛もない。最初の観察での画像(g, h)でもわかるが、多くの葉の縁は下半部で狭く反曲している(v)。中肋の表皮細胞は、背面でも腹面でも、葉の上半部では短い矩形の細胞、葉の下部では長い矩形の細胞となっている。また、葉身細胞の表面のパピラは薄壁でC字形をしていることがはっきりした。パピラの形が「C字形」であることは、先の観察では見落としていた。その他の形質状態、つまり葉の断面の様子や茎の断面の様子やKOH反応については、先の記述や画像(n, o, p, g)と変わらない。
 
 
 
(s)
(s)
(t)
(t)
(u)
(u)
(v)
(v)
(w)
(w)
(x)
(x)
(y)
(y)
(z)
(z)
(aa)
(aa)
(ab)
(ab)
(ac)
(ac)
(ad)
(ad)
(s) 標本:乾燥時、(t) 標本:湿時、(u) 茎の表面、(v) 葉の中央下部背面、(w) 中肋背面上部の表皮、(x) 中肋背面下部の表皮、(y) 葉の腹面、(z) 中肋腹面上部の表皮、(aa) 中肋腹面下部の表皮、(ab) 葉腹面中央付近の葉身細胞、(ac) 葉腹面の葉身細胞:対物油浸100倍、(ac) 葉背面の葉身細胞:対物油浸100倍

 さきに検討したときには、ネジレゴケ属とクチヒゲゴケ属に絞って行っているが、ネジクチゴケ属 Barbula は、はなから除外していた。というのは、無性芽がないこと、中肋の表皮細胞が、背面側も腹面側も共に長楕円形ではなく、長い矩形をしている、などがその根拠だった。しかし、改めて再検討してみると、ケネジクチゴケの可能性もありそうに思えた。しかし、Noguchi(Part2 1988)やK.Saito "A monograph of Japanese Pottiacea" Journ. Hattori Bot. Lab. No.39, pp.491-493 などを読んでみると、観察結果とは符合しないように思える。また、他のネジクチゴケ属の種にも、観察結果と符合する種はみあたらない。

 今回の再観察の結果、大部分の葉で、C字形のパピラが各細胞に3〜4つあることがはっきりした。これは、葉の背面側よりも腹面側でより顕著に捉えられる。そこで改めて平凡社図鑑の検索表をたどると、やはりエゾネジレゴケ Tortula obtusifolia に落ちる。しかし、手許の文献でこの種についての詳細な記載が記されたものはない。ネット上の情報からも詳細はやはりよくわからなかった。そこで、ここでは「センボンゴケ科」から「ネジレゴケ属」に訂正することにした。
 コメントありがとうございます。再検討をする機会を与えて下さったことに感謝します。