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2018年6月6日(水) あの日のこと:悲しみのどん底へ
 わが家は夫婦二人暮らしで、am4:00〜4:30という早い時刻がふだんの起床時間だった。冬場はまだ真っ暗、夏至の頃だとようやく東の空に薄明かりが射し始める。朝食はおおむねam5:30頃で、それまでは二人とも各々顕微鏡やらデスクトップパソコンに向かったり、モノグラフや論文に目を通していた。am5:00頃になると妻は朝食の準備を始める。
 新聞受けからその日の新聞を持ってきて、それを二人で眺めながら朝食をとるのが恒例の行事だった。新聞休刊日などは、物足りないねなどと言いながら食事をとっていた。
 ここ20年ほどはこういった生活が続いていた。妻に声をかけるときはいつもカミコンと呼んでいた。ヨシコ(淑子)という名前で呼んだことはついぞ記憶にない。友人たちもみな妻のことをカミコンと呼んでいた。以下妻の呼称はカミコンとして記すことにする。

 それは2018年5月26日土曜日のことだった。この日の朝、日光市野口のパン屋に行ってみることにして、軽自動車のスバルR2でam7:20頃に家をでたが結局パンを買うことはできず、そのまま近くの日光だいや川公園を散策することになった(雑記2018.5.30)。
 帰宅して昼食をとり二人とも20分ほど昼寝をした。これもいつもの習慣だった。その後、近くのスーパーマーケットまで出かけて行った。二人でそのスーパーに行くときはたいていR2を使うのだが、一人で出かけるときは、歩いたり自転車を使っていた。荷物が少し多めの時には自転車だった。この日は自転車に乗って出かけた。pm1:30過ぎだったろうか。

 何となく帰宅が遅いとは思ったが、まあそのうちに帰ってくるだろうとあまり気にしていなかった。スーパーを出て近くの農産物直売所に寄ることがしばしばあった。そんな時に電話のベルがけたたましく鳴った。pm3:00頃だったろうか。わが家の固定電話はナンバーディスプレイなのだが、この時に鳴った電話が固定電話だったのか携帯だったのかは覚えていない。ただ、表示された発信者は見慣れぬ番号だった。一瞬大きな不安がこみあげてきた。

 電話は救急隊員からだった。受話器の向こうからは思いがけないことが伝えられた。
  「奥さんが今市病院で心臓マッサージを受けています」
  「何があったんですか? 状態はどうなのですか?」
  「電話ではこれ以上は申し上げられません。とにかく来てください」
  「ケガのあんばいでは準備するものがありますから」
  「とにかくすぐに病院に来てください」
これ以上いくら聞いても聞いても何も答えてもらえなかった。

 頭の中は不安でいっぱいになった。はやる心を押さえて免許証だけを持ってR2を今市病院まで走らせた。ハンドルを握る手が震えるのを押さえるのに必死だった。何があったんだ、カミコンの怪我の状態はどの程度なのだろう、着替えも保険証も持ってこなかったが、などと不安が募って、運転に集中するのがやっとだった。

 病院に到着して救急処置室に入ると、頭からベッタリ大量の血を流してカミコンが横たわっていた。血はさらに絶え間なく流れ出していた。複数の医師と看護師に囲まれて、医療関係者と思しき人が心臓マッサージをしていた。私が到着するとマッサージをしていた人がほっとしたような顔をして一瞬手を休めた。そして頭部の方にいた医師が言った。
  「みてください。マッサージをやめると心電図はこんな状態です」
心電図は横に一直線に伸びるだけでもはや特有の振動は見られなかった。
  「心臓マッサージですでに肋骨はボキボキに折れています」
  「どうしますか? マッサージを続けますか。無駄だとは思いますが・・・」
医師は次々に問いかけてくるが、声が詰まってなんと答えたらよいのかわからなかった。

 ふだんから二人で話し合って延命措置はやらないと決めていた。しかし、いま行われているのは、もはや延命措置ではなく、既に死亡してしまった遺体に対して形式的な心臓マッサージをしているだけではないか。でも医師は死亡という言葉は一言も発することなく、心臓マッサージを続けても無駄だとしか言わなかった。
 そこで心臓マッサージの中止を申し出た。マッサージに従事していた医療関係者はほっとしたように手をどけた。やがて医師が心臓の拍動が停止していること、そして呼吸の停止、さらに瞳孔散大・対光反射の停止を確認して死亡を宣告した。死体検案書に記入される死亡時刻はpm3:36となった。 そしていったん処置室の外にでて、廊下のベンチで待つように指示された。pm4:00頃だったろうか。

 廊下のベンチに座ると、涙が溢れてどうにもならなかった。なぜ、どうして、何があったんだ。やがて救急隊員が説明してくれた。自動車事故に遭ってここに運ばれたが、どういう状況かはわからないとのことだった。ついで大沢駅前交番の巡査という方が来て、事故の概要を説明してくれた。しかし、その巡査も事故状況についてはあまりよくわからない様子だった。

 やがて交通担当の警察官がやってきて、事故の様子が少しわかってきた。
青信号で自転車に乗って横断歩道付近を渡っているときに、後方からきた右折車と接触して、路面に頭を強く打って動かなくなったのだという。目撃者が救急と警察に連絡してくれたのだという。目撃者は事故の瞬間は見ておらず、事故があって人が倒れている姿を見ただけだという。車の運転者は81歳の男性で、今は現場で警察官から事情を聴かれているということだった。

 長い長い待ち時間があって、外はすっかり暗くなるころに、車の損害保険代理店の方がやってきて挨拶だけしてすぐにいなくなった。そしてしばらくすると、加害者の運転者が息子さんに付き添われてやってきた。大柄の男性だった。
  「申し訳ありません。すべて私が悪いのです。もう運転免許証は返上します」
  「右折する時に右のドアミラーは確認しましたか?」
  「見ました。でもそこには人の姿も自転車もありませんでした」
  「そのとき前方は見ていたのですか?」
  「申し訳ありません。はっきり覚えていません」
  「警察に聞かれてどのように答えたのですか?」
  「すみません。動転していてどう答えたのかはっきり覚えていません」

 いまさら加害者をいくら責めたところで、カミコンは戻ってこない。涙をこらえて加害者に言った。
  「たとえ過失であろうと、あなたは人を殺めたことにかわりありません」
  「わかっています。一生このことは背負って生きていきます」
  「あなたを責める気持ちはありません。明日は我が身かもしれませんから」
  「・・・・・・・(無言)」
  「今後二度とハンドルを握らないでください」
息子さんに伴われて加害者の男性は帰って行った。

 その後も長い長い時間ベンチに座って待ち続けた。時の流れが永遠に止まってしまったかのようだった。この待ち時間の間に、娘と親しくしていた友人に電話を入れた。カミコンの死を伝え、彼らの方から実家の親族や親しい友人らに伝えて欲しいと。
やがて看護師が処置室から出てきて、遺体がきれいになったので入ってくださいと言われ中に入った。カミコンの亡骸は病院の浴衣に着替えさせてもらい、両手は胸の前で握られていた。頭部や顔に付着していた血痕はかなりきれいに拭き取られていた。
 冷たくなったカミコンの唇に別れの接吻をして、再び処置室をでた。

 なかなかカミコンが死んだという現実を受け入れられなくて、ベンチに腰掛けてこれからどうしようと思い悩んでいるときに、看護師から非情な声がかかった。
  「ご遺体をどうなさいますか。ご自分の車で自宅にはこびますか?」
  「えっ、今直ちに? 一晩病院の霊安室で預かってもらえないのですか?」
  「それはできません。ご自宅が無理なら葬儀屋さんに依頼してはどうですか」
  「病院から葬儀屋さんにお願いすることはできませんか?」
  「それはできません。電話帳をお持ちします。ご自分で連絡してください」
  「受付で死亡届を受け取ってそれを持ってご遺体を運んでください」

 そんなやり取りがあってから、電話で葬儀屋さんと連絡をとった。30分後くらいに霊安車で病院に向かうということだった。やがてカミコンの遺体が運搬台に移されて処置室からでてきた。そして遺体は看護師二人に付き添われて病院地下にある霊安室に移動された。
 霊安室からいったん受付前にある待合室のベンチに座って死亡届がでるのを30分ほど待った。病院から受け取った死亡届には死因は脳挫傷とあった。死亡届の書類を持って、やってきた葬儀屋さんの霊安車に遺体を乗せて、その後ろについて走った。車で着いていく間も涙が次から次へと溢れてきた。涙が溢れると前方がよく見えなくなるので必死で拭き取りながら走った。

 病院から葬儀屋さんまでは距離にして15〜16Kmほどあり、そこを30分ほどかけて走ったのだが、永遠に長い時間に感じられた。葬儀屋さんの店に着いてカミコンの遺体を安置すると、直ちに葬儀の話が始まった。そして大方の段取りが決まった段階で、再び娘と友人に連絡を取った。夜中に娘夫婦がやってきてくれた。娘がすぐに葬儀の文面を作成して、メールと電話でカミコンの親兄弟、親しかった友人らに連絡をしてくれた。

 私たち夫婦は、以前からもし万一の場合のことを取り決めて娘にも伝えてあった。親しい友人らにもしばしば話していた。
  〇 万一の場合に延命措置はしない
  〇 葬儀は一部の親族と近しい友人だけで簡素に行う
  〇 受付は立てず施主の挨拶もせず香典は受け取らない
  〇 墓は作らず遺骨は散骨する
したがって、葬儀とはいってもごく身近な親族とごく親しい少数の友人だけで行うことにした。葬儀屋さん主人も、私の意志をよく理解してくれて、そういった内容の葬儀となるよういろいろ取り計らってくれた。この葬儀屋さんには感謝している。

 あとでわかったことだが、なぜすぐに被害者(カミコン)の家族の連絡先がわかったのかというと、手持ちの荷物の中に彼女の運転免許証、ケータイと一緒に自宅の連絡先が入った葉書があったからだという。これらは後日現金などとともに戻ってきた。
 ふだんからすぐ近くに出かける場合でも、早朝の散歩をする場合でも、私たち二人ともそれぞれ必ず運転免許証とケータイを持つようにしていた。
 また、救急隊員が病院に運ばれたカミコンの具体的な状態を話せなかったのは、病院に駆けつける運転者が新たな事故を起こしかねないという配慮からのようだった。また医師の死亡診断がなされるまでは、死亡したという取扱いはできないからだ。

 他人にとっては交通事故で妻を失った夫のたわごとに過ぎないだろう。しかし当事者にとっては今後の生き方を大きく左右する最も重大で重い事実で、決して忘れることのできない出来事だ。とても長い長い、とても辛い一日だった。心に大きく空いた穴は決して埋められない。
 心を鬼にしてなるべく冷静に客観的な事実を主体にこの文面を記した。