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胞子紋のこと



胞子紋とは

 多くのきのこはたくさんの胞子をまき散らす。これを意識的に堆積させて作った胞子堆を胞子紋(spore print)といっている。多くは紙、銀紙、ガラスなどにきのこの傘を一定時間伏せて胞子が落ちて適度に貯まるを待つことによってできる。ただ、腹菌類などでは、意図的に胞子堆を作ったものでも、一般には胞子紋とは呼ばない。主に担子菌類ハラタケ目のきのこについて語られるときに登場する技術用語だ。
 ちなみに "Dictionary of the fungi" には以下のように記されている。
spore print, the deposit of basidioma obtained by allowing spores from a basidiocarp to fall onto a sheet of paper (white or coloured) placed bollow the lamellae or pores.
 胞子紋は白色から黒色はむろん、褐色系、緑色系、黄色系など実に変化に富んでいる。そこでたいていは白紙にとることが普通に行われている。白色系の胞子紋は黒紙などにとるのがよいと勧めている書籍などもあるが、正確に色を判定するには白色系の胞子紋でも白い紙、特に濾紙などにとるのがよいとされている。

何のために胞子紋をとるのか

 原色日本新菌類図鑑(1)の5ページには「胞子の色は科、属または種を区別する場合の重要な特徴となる」と記述されている。つまり胞子が堆積したときの色が最も重要であり、これを知るために胞子紋をとるのだとされている。胞子の色を知り、それを分類の重要な手がかりの一つとして役立てることが本来の目的とされている。
 胞子の色といっても、若い菌と成熟した菌、さらには老菌ではまるで色の違うきのこもある。若い菌では真っ白い胞子が、成熟すると茶褐色になり、老菌では黒褐色になるものなどもある。つまり成熟の度合いによって色の濃さが異なり、堆積の厚みによっても色味は異なる。一般的には成菌の胞子が適度に落ちて堆積したものがよいとされるが、この適度の量が問題でもある。

時間経過と胞子紋の色の差異
(ツバナシフミズキタケ)
1時間後 4時間後

 胞子が堆積した時の色が胞子紋にとって最も重要な要素であるとすれば、何年も後でもその色を保存できるか否かということが問題にされてもよさそうなものだが、そういった議論はあまり聞かれない。さらに胞子紋ばかりを整理・分類して多量に保管したライブラリというものは存在するのだろうか。

コレクションとしての胞子紋

 胞子の色を見るためではなく、胞子そのものをミクロ的に観察するためにも胞子紋は非常に役にたつ。カバーグラスやスライドグラスなどにとった胞子紋は、そのまま顕微鏡に載せて胞子の姿を見ることができる。白い濾紙にとった胞子紋でも、そこから少量の胞子を掻きおとすことによって、後日でもミクロの観察に使うことができる。この場合は乾燥標本のヒダ切片を切り出して見るよりも簡単だし、純粋に胞子だけを取り出すことができる。

スライドグラスに直接とった胞子紋1
(このまま胞子観察標本になる)

 きのこの中には実に美しい胞子紋を作ってくれるものがある。芸術的とさえいえる胞子紋もある。これを何も学問的関心のためにだけ使うことはない。純粋に胞子紋コレクションを楽しむことも奥の深い趣味といえよう。またこれをアートとして利用することも一興である。
 こういった用途に使う場合は、後日胞子をそこから掻きおとすことなど考えなくてもよい。つまり、新鮮できれいな胞子紋ができたら自然乾燥させた状態で、その色と形を保存してしまえばよい。たとえば透明ニスで表面を覆うとか、油絵などで使うフキサチーフなどで表面固定をしてしまえばよい。胞子紋をとる媒体だって別に白い濾紙ばかりではなく、タイルやアート紙などでもよいだろう。

何に堆積させるか

 純粋に胞子の色を知るために胞子紋をとろうと思ったら、胞子の色に関わりなく、白い濾紙にとるのがよいだろう。白っぽい胞子は一見すると紙の白色にとけこんでしまって、果たしてそこに胞子の堆積があるのか否かわかりにくいことは確かである。でも、同じ色でも白バックにした場合と黒バックにした場合では、全く同一色のはずなのにずいぶん違って見えるものだ。だからわずかな色合いの差異を知るためにもすべて白い濾紙に堆積させるのが最もよいと思う。

真っ白でほとんど何も見えない胞子紋
ニセマツカサシメジ シモコシ

 色を知るためではなく、後日胞子を観察するために胞子紋をとるつもりなら、紙の色やら素材にこだわる必要はない。直接スライドグラスにとるのが最も簡単だ。そして、そのスライドグラスをそのまま胞子標本として保管してしまえばよい。保管にはプレパラートなどを保存するケースなどでよい。そのためには、胞子堆積の量を多からず、少なからずにすることが重要になる。多すぎる胞子堆は、箱の開閉や震動などで箱の底に落ちたり箱の中を漂って、他の胞子紋標本に付着したりして混乱をきたしてしまう。少なすぎると逆に統計的な計量が困難となる。
 直ちに顕微鏡で観察するつもりなら、数枚のカバーグラスの上にきのこをしばらく載せておくだけで十分だろう。数分から30分もすれば多くのきのこは適度の胞子をカバーグラスに落としてくれる。数枚というのがミソだ。1枚はそのままスライドグラスに載せて観察すればよい。いわば簡易ドライマウントである。必要なら水やらグリセリンなどを使えばよい。ほかのカバーグラスはメルツァーなり試薬を使って見るのに使う。

濾紙に胞子紋をとる

 いろいろ議論はあろうが、私たちは胞子紋を2つの用途に使ってきた。一つは「胞子の色をみる」ために、いまひとつは「後日のための観察用標本」として、である。このため、以前は径90mmの円形白色濾紙だけをもっぱら使っていた。厚さ12mmほどのゴム板の上にこの濾紙を敷き、その上になるべく状態のよい傘を静かに置く。これは柄を傘との付け根付近で切断したものだ。そして乾燥を防ぐためにクッキングペーパーを湿らせたものを傘の上に載せ、その上からビンなりコップなりをかぶせる。そして、翌朝まで放置する。濾紙に胞子紋をとる場合、胞子の堆積が厚すぎて困ることはない。
 多くの場合、翌朝には濾紙の上にはたっぷりと胞子が堆積している。ときには濾紙がしっかり濡れてしまっていることもある。このあと、無風状態の場所に30分から1時間ほど放置して濾紙と胞子を乾燥させる。すっかり乾燥したところでこの濾紙をポリプロピレン製の袋に入れ、袋表面にネームペンで種名、標本番号、採種年月日、場所などを記述する。ポリプロピレンの袋は4"×5"フィルム用のものがカメラ屋で安く入手できる。4"×5"フィルム用の袋にはφ90mmの濾紙がピッタリと収まってくれる。COSMOSという商標の「PP-45」という商品がとても使いやすくて気に入っている。
 ポリプロピレンの袋に納めるときに最も大事なのが、濾紙を十分乾燥させてから納める、ということだ。さらに、胞子紋に混ざって落ち込んでいる虫を取り除くことだ。さもないと、数日中には中でカビが発生したり、虫に食われてしまってみるも無惨な姿になってしまう。

アカササタケ ハルシメジ キイボカサタケ ムジナタケ

スライドグラスに胞子紋をとる

 採取したサンプルが少ない場合、あるいは一つしかないような時は、円形濾紙に胞子紋をとるときに、同時に濾紙の端にスライドグラスを1枚置いて、その両者に覆い被さるように傘部を静かにおく。小さなきのこでは濾紙の中央付近にひとつ、スライドグラスの上にひとつ傘を置いて、その上からビンなどをかぶせている。
 30分ほど経過したところでスライドグラスへの胞子の堆積ぐあいを見る。目視で分かる程度に胞子が落ちていればそのままスライドグラスだけをはずしてしまう。胞子がほとんど落ちていなければさらに30分間ほど放置してみる。濾紙に採取する胞子紋とは役割が違うので少量の胞子が落ちればよい。過分の胞子堆積はかえって邪魔となる。
 胞子紋、というよりスライドグラス上の胞子堆はこのまま胞子標本として保存する。スライドグラスの端に必要事項を記述したラベルを付けて、プレパラート保存箱に立てて納める。日常は木製で100枚収納のケースを使っている。旅行先などには10枚から12枚入りの小型プレパラートケースなどを数個持っていく。保存に先立って、スライドグラスを立てて軽くコンコンと振動を与えて過分の胞子を落としてしまう。このとき、下にカバーグラスなどを置いておくと、そこに胞子が落ちてくれるので、これも観察に利用できる。
 この方法には、前提として「きれいなスライドグラス」を準備しておくことが重要だ。使い回したスライドグラスは使わない、これが基本となる。カバーグラスも同様だ。何度も使ったスライドグラスには色々な組織片や汚れ、傷があるものだ。

スライドグラスに直接とった胞子紋2
(このまま胞子観察標本になる)

 なお、濾紙に胞子紋をとるのとは全く別個に、スライドグラスとカバーグラスだけを紙の上に並べその上にきのこを置き、コップなどをかぶせてしばらく放置することもよくやっている。カバーグラスは短時間で取り出し、スライドグラスはそれよりもやや長い時間放置している。こうすると、傾いたヒダなり管孔から胞子が垂直に落下してスライドグラスの上に適度に堆積してくれる。標本をギロチン状態にしたくないときこのやり方は優れた方法だ。また、ハラタケ目以外のきのこや硬質菌などにもこのやりかたは使える。
 ここでカバーグラスに落ちた胞子は「使い捨て」観察用に使う。顕微鏡で胞子を観察するにあたりメルツァーなどの試薬を使う場合など、このカバーグラスサンプルはとても都合がよい。逆に、顕微鏡を持たずにでかけた宿泊先などでは、カバーグラス標本は作っていない。スライドグラスに落としたものは胞子標本として使う。こちらは後日の観察などを目的としている。

胞子紋をいつとるか

 胞子紋をとる時期であるが、とうぜん持ち帰ったら直ちに処理すべきであろう。理想としては現地で採種した直後が最もよいといえようが、現実問題それは難しい。でも、ササクレヒトヨタケなどのようにヒダが液化してしまうきのこは、自宅に持ち帰る頃には胞子紋どころか、ドロドロに溶けてしまうことすらある。こういうきのこでは現場で採種したらその場で直ちに胞子紋をとるしかない。幸いこの手のきのこは短時間に多量の胞子を落とすので、数分間でたちまち胞子の堆積ができる。こういったきのこは胞子紋に限らず、ヒダ切片のプレパラートなども現場でつくってしまうほかあるまい。
 宿泊して採種・観察するような場合は、採種したその日のうちに宿泊先で胞子紋を作る。このため、泊まりで出かける折りには「胞子紋作成簡易キット」をいつも持っていく。早い話が濾紙、ポリプロピレン袋、ネームペン、キッチンペーパー、スライドグラス、ラベリング用紙、小型プレパラート保存箱、ボールペン、ハサミ、カッターナイフなどをプラスチックケースに収めたものだ。小さなケースなので、リュックにも入ってしまう。胞子紋採種中に上からかぶせる覆いには、入手しやすいコップや茶碗、どんぶりなどを流用している。それもなければ、いくつかをまとめて大きめのポリ袋に入れてしまって適度に空気と湿り気を含ませて密閉状態を作っている。
 宿に入ってビールなど飲みながらこの作業をし、翌朝まで放置しておく。知人・友人らの中にはこれに加えて、乾燥システム一式を宿舎に持ち込んで、きのこの乾燥標本も同時につくってしまう強者もいる。彼らは慣れた手つきで実に手際良く処理する。私たちは現在のところ、現地では胞子標本だけしか作っていないので、乾燥機などを持ち歩くことはしていない。乾燥標本を作る場合には自宅に持ち帰ってから作業している。

胞子紋をよい状態で保存する

 梅雨の頃、濾紙に堆積させてポリプロピレン袋に納め、ケースに格納しておいた胞子紋が、すっかりカビてしまって使い物にならなくなったことが何度かあった。保管方法を誤ったり、湿度の高い時期に油断していると濾紙にとった胞子紋はたやすくカビにやられてしまう。こういった被害にあわないためには、ドライボックスに入れておくのが一番であろう。ただし、乾燥剤を定期的にチェックしておくことを忘れてはならない。写真材料屋などで安く販売されているプラスチック製ドライボックスで十分だ。



 これに対して、スライドグラスに付着させた胞子紋(堆)の方は、案外カビには強い。多少のお湿り期間ではほとんど被害はないが、これも万全を期すならば、プレパラート保存ケースごとドライボックスに納めておくのがよいかもしれない。そして、これは落としたり逆さにしないよう、また不要な振動を与えないようにして保管することも必要だ。

カビてしまった胞子紋
クギタケ モエギタケ ムラサキシメジ

(2001/11/16記)