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[標本番号:No.501   採集日:2008/07/19   採集地:岐阜県、高山市]
[和名:マルバヤバネゴケ   学名:Cephalozia lunulifolia]
 
2008年8月19日(火)
 
(a)
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(b)
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(c)
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(d)
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(e)
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(f)
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(g)
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(h)
(h)
(i)
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(j)
(j)
(k)
(k)
(l)
(l)
 7月に岐阜県の安房平で白緑色のツキヌキゴケ科の苔類を採集した(a)。標高1500mのうす暗い針葉樹林、湿った岩上の腐植土に出ていた。純群落を採取したつもりだった。採取したものはチャック付きポリ袋に入れたままずっと生かしておいた。
 今日このツキヌキゴケ科の苔類を観察しようと、標本を実体鏡の下に置いた。すると、小さな別の苔類が多量に入り交じっている。生態写真(a)をみると、確かにそこにも写っていた(b)。まずは、両者を選り分けた。分別には結構時間がかかったが、小さなコケはかなりの量があった。そこで、まずはこの小さなコケを観察することにして、標本番号No.501を付与した。
 茎は不規則に分枝し、長さ3〜5mm、葉を離在〜接在気味に、瓦状につける(c, d)。わずかに胞子体をつけたものも含まれていたが、朔柄はすっかりペシャンコになり、観察はできなかった(e)。葉は類円形〜楕円形で、茎に斜めにつき、背側に偏向する(f)。葉の長さは茎幅と同じか1.5倍ほどあり、1/2あたりまで二裂し、裂片は鋭三角形で、切れ込みは狭い湾型で、縁は全縁(f〜j)。写真は、背面(g)、腹面(h)、茎の縦半分に葉を2枚つけた状態(i)。
 葉身細胞は、六角形でトリゴンはほとんどなく、長さ18〜35μm(j, k)、表面が凸状に膨らむ。標本を分別したのち、チャック付きポリ袋に入れたが、数時間もすると、内部が曇って袋が膨らんできた。つまり標本の苔類はまだ生きている。油体があれば、残っているはずだ。何枚もの葉を、合焦位置を変えながらいろいろ観察したが、いずれも油体は見つからない。
 茎の横断面をみると厚壁の髄細胞が表皮とは明瞭に区別できる。また、茎の多くは、円形というより扁平気味である。
 
 
 
(m)
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(n)
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(o)
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(p)
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(q)
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(r)
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(s)
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(t)
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(u)
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(v)
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(w)
(w)
(x)
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 採集した標本には胞子体をつけたものがいくつかあった(c, e, n)。枝の途中につき、本体の葉よりずっと大きな雌苞葉に囲まれた花被の中に黒色の朔が入っている(n)。花被は紡錘状円筒形で(n, o)、上部の断面は三角形(q)、口部は狭く、短毛がみられる(o, p)。花被のこういう状態を三褶というのだろうか。苞葉は、大きく二裂〜三裂し、裂片の先は毛状に伸びる(r)。朔柄の縦断面の構造は確認できなかった。朔の細胞を表側(s, u)と裏側(t, v)から確認した。朔を押し潰すと弾糸と胞子が多数飛び出した(w)。胞子は球形で径10〜12μm。

 ヤバネゴケ科 Cephaloziaceae の苔類だろう。属への検索表をたどるとヤバネゴケ属 ヤバネゴケ属 Cephalozia に落ちる。種への検索表をたどると、オタルヤバネゴケ C. otaruensis あるいはタカネヤバネゴケ C. leucantha のいずれかと思われる。
 外見的形状からはオタルヤバネゴケに近い。しかし、そうだとすると、全体のサイズがやけに小さい、茎の太さに比して葉が小さい、葉身細胞がやや小さい、葉身細胞の表面が平滑でない、油体がない、茎の横断面で厚膜の髄がある、など図鑑の解説とは相違する。
 一方、タカネヤバネゴケだとすると、葉の付き方が離在というより、離在もあれば接在もあり、葉の大きさが茎幅と同じものばかりではなく、茎幅の1.5倍程の長さの葉があり、葉身細胞のサイズもやや大きい。油体がないこと、茎の横断面で厚膜の髄部があることなどは、この種の特質と矛盾しない。とりあえず、ここではタカネヤバネゴケとしておく。

[修正と補足:2008.08.20]
 識者の方から貴重なコメントをいただき、オタルヤバネゴケあるいはマルバヤバネゴケの可能性の再検討を指摘された。先入観抜きに改めて再検討を加えた結果、この標本はマルバヤバネゴケ C. lunulifolia とするのが妥当との結果に至った。以下にその経過と補足を加えた。適切なアドバイスとコメントありがとうございました。
 

 
 
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 改めて乾燥標本を引っ張り出して、葉が整然と付いている枝と、花被などをつけている部分とをいくつか選び出した(a)。水没させると、比較的生状態に近い姿に復元した(b)。まずは、葉の形と、茎に対する付き方を確認した。葉の形は「方形または楕円形」ではなく、「円形」と捉えるのが妥当といえる(g〜i, 2, 3)。次に、茎に対する付き方だが、背縁基部は「ほとんど茎に流下しない」とはいえず、むしろ「茎に長く流下する」と捉えてよいと判断した(f, g, 2, 3)。なお、再検討にあたっては、ミズゴケ類を調べるときにやるように、一部の茎と葉などをサフラニンで染色した。
 保育社の図鑑でも、平凡社の図鑑でも、検索表の分岐の形質として、比較的初めのほうで、「葉の形」と「背縁基部の下延(流下)の状態」を取り上げている。観察結果の解釈を誤って、葉を円形とはとらえず、背縁基部が流下しないととらえたために、カタヤバネゴケとマルバヤバネゴケを早い段階で排除してしまった。これは解釈の誤りといえよう。
 適切な解釈と判断をしていれば、残る選択肢はどちらの図鑑を使っても、マルバヤバネゴケを含むグループしか残らない。ついで発生環境と、雌苞葉の先端の様子を考慮すれば、ごく自然にマルバヤバネゴケにたどり着く。
 再検討にあたっては、花被と雌苞葉を切り離して(4)、それぞれ別に観察した。花被の先端は、先に判断したように2細胞長ほどの短毛状(6)。雌苞葉の裂片の先端は鋭頭もあれば、長い刺状もある(7〜9)。花被と雌苞葉を切り離したときに、ごく短い朔柄が出てきたので(4)、朔柄の横断面を確認した。外側の細胞は8つ、内側の細胞は4つからなる(5)。これは、保育社図鑑でヤバネゴケ科の特徴として紹介されている記述と一致する。一度確認したいと思っていたが、今回の再検討の副産物として、朔柄の横断面をみることができた。

 実はこの苔類は、観察段階で多くの迷いを感じ、再検討は必須と感じたこともあり、形態的に最も似つかわしくないタカネヤバネゴケとしておくことにしたものだった。いくつかの図鑑や写真、モノグラフなどでみるタカネヤバネゴケとは形態的にあまりにも違いが大きい。だから、すっかり忘れた頃になっても、疑問を感じて再検討することになろう、との判断だった。
 最も引っかかったのが、葉の背縁基部の状態を、茎に下延(流下)していると見るか否かだった。葉の形については、さほど疑問は感じなかった。タカネヤバネゴケとしてアップしたあとも、あるいはマルバヤバネゴケではあるまいかという疑念がつきまとった。識者の方からコメントをいただいたとき、最初に感じたのは「あぁ、やはり」ということだった。マルバヤバネゴケの可能性について触れておられたからである。

 なお、井上『日本産苔類図鑑』によれば、マルバハネゴケとカタヤバネゴケはよく似ているが、カタヤバネゴケは植物体がやや硬く、褐色をおびる傾向が強く、葉の裂片は双方交差することなく開いているという。さらに、一般にマルバハネゴケはコメツガ、シラベ等の針葉樹林内から高山のハイマツ林内などに生育するという。
 さらに、タカネヤバネゴケについて、西日本にはごく少なく、北海道や中部以北の本州の高地に多い、とある。また、カタヤバネゴケでもごくまれに葉がタカネヤバネゴケに近いものが現れることがあるという(愛媛県東赤石山)。