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あの日のこと:悲しみのどん底へ | |
わが家は夫婦二人暮らしで、am4:00〜4:30という早い時刻がふだんの起床時間だった。冬場はまだ真っ暗、夏至の頃だとようやく東の空に薄明かりが射し始める。朝食はおおむねam5:30頃で、それまでは二人とも各々顕微鏡やらデスクトップパソコンに向かったり、モノグラフや論文に目を通していた。am5:00頃になると妻は朝食の準備を始める。 新聞受けからその日の新聞を持ってきて、それを二人で眺めながら朝食をとるのが恒例の行事だった。新聞休刊日などは、物足りないねなどと言いながら食事をとっていた。 ここ20年ほどはこういった生活が続いていた。妻に声をかけるときはいつもカミコンと呼んでいた。ヨシコ(淑子)という名前で呼んだことはついぞ記憶にない。友人たちもみな妻のことをカミコンと呼んでいた。以下妻の呼称はカミコンとして記すことにする。
それは2018年5月26日土曜日のことだった。この日の朝、日光市野口のパン屋に行ってみることにして、軽自動車のスバルR2でam7:20頃に家をでたが結局パンを買うことはできず、そのまま近くの日光だいや川公園を散策することになった(雑記2018.5.30)。 何となく帰宅が遅いとは思ったが、まあそのうちに帰ってくるだろうとあまり気にしていなかった。スーパーを出て近くの農産物直売所に寄ることがしばしばあった。そんな時に電話のベルがけたたましく鳴った。pm3:00頃だったろうか。わが家の固定電話はナンバーディスプレイなのだが、この時に鳴った電話が固定電話だったのか携帯だったのかは覚えていない。ただ、表示された発信者は見慣れぬ番号だった。一瞬大きな不安がこみあげてきた。
電話は救急隊員からだった。受話器の向こうからは思いがけないことが伝えられた。 頭の中は不安でいっぱいになった。はやる心を押さえて免許証だけを持ってR2を今市病院まで走らせた。ハンドルを握る手が震えるのを押さえるのに必死だった。何があったんだ、カミコンの怪我の状態はどの程度なのだろう、着替えも保険証も持ってこなかったが、などと不安が募って、運転に集中するのがやっとだった。
病院に到着して救急処置室に入ると、頭からベッタリ大量の血を流してカミコンが横たわっていた。血はさらに絶え間なく流れ出していた。複数の医師と看護師に囲まれて、医療関係者と思しき人が心臓マッサージをしていた。私が到着するとマッサージをしていた人がほっとしたような顔をして一瞬手を休めた。そして頭部の方にいた医師が言った。
ふだんから二人で話し合って延命措置はやらないと決めていた。しかし、いま行われているのは、もはや延命措置ではなく、既に死亡してしまった遺体に対して形式的な心臓マッサージをしているだけではないか。でも医師は死亡という言葉は一言も発することなく、心臓マッサージを続けても無駄だとしか言わなかった。 廊下のベンチに座ると、涙が溢れてどうにもならなかった。なぜ、どうして、何があったんだ。やがて救急隊員が説明してくれた。自動車事故に遭ってここに運ばれたが、どういう状況かはわからないとのことだった。ついで大沢駅前交番の巡査という方が来て、事故の概要を説明してくれた。しかし、その巡査も事故状況についてはあまりよくわからない様子だった。
やがて交通担当の警察官がやってきて、事故の様子が少しわかってきた。
長い長い待ち時間があって、外はすっかり暗くなるころに、車の損害保険代理店の方がやってきて挨拶だけしてすぐにいなくなった。そしてしばらくすると、加害者の運転者が息子さんに付き添われてやってきた。大柄の男性だった。
いまさら加害者をいくら責めたところで、カミコンは戻ってこない。涙をこらえて加害者に言った。
その後も長い長い時間ベンチに座って待ち続けた。時の流れが永遠に止まってしまったかのようだった。この待ち時間の間に、娘と親しくしていた友人に電話を入れた。カミコンの死を伝え、彼らの方から実家の親族や親しい友人らに伝えて欲しいと。
なかなかカミコンが死んだという現実を受け入れられなくて、ベンチに腰掛けてこれからどうしようと思い悩んでいるときに、看護師から非情な声がかかった。
そんなやり取りがあってから、電話で葬儀屋さんと連絡をとった。30分後くらいに霊安車で病院に向かうということだった。やがてカミコンの遺体が運搬台に移されて処置室からでてきた。そして遺体は看護師二人に付き添われて病院地下にある霊安室に移動された。 病院から葬儀屋さんまでは距離にして15〜16Kmほどあり、そこを30分ほどかけて走ったのだが、永遠に長い時間に感じられた。葬儀屋さんの店に着いてカミコンの遺体を安置すると、直ちに葬儀の話が始まった。そして大方の段取りが決まった段階で、再び娘と友人に連絡を取った。夜中に娘夫婦がやってきてくれた。娘がすぐに葬儀の文面を作成して、メールと電話でカミコンの親兄弟、親しかった友人らに連絡をしてくれた。
私たち夫婦は、以前からもし万一の場合のことを取り決めて娘にも伝えてあった。親しい友人らにもしばしば話していた。
あとでわかったことだが、なぜすぐに被害者(カミコン)の家族の連絡先がわかったのかというと、手持ちの荷物の中に彼女の運転免許証、ケータイと一緒に自宅の連絡先が入った葉書があったからだという。これらは後日現金などとともに戻ってきた。
他人にとっては交通事故で妻を失った夫のたわごとに過ぎないだろう。しかし当事者にとっては今後の生き方を大きく左右する最も重大で重い事実で、決して忘れることのできない出来事だ。とても長い長い、とても辛い一日だった。心に大きく空いた穴は決して埋められない。
事故当日からかなり時間が経ったある日、加害者の語ったことは思いがけないことだった。加害者を必要以上に追い詰めることにもなりかねないので、これまで迷いつつ記さなかったが、やはりここに記しておくことにした。
加害者の運転していた車は今では数少ないマニュアル車だった。かつて教習所などではマニュアル車にあっては、やってはいけない危険行為というものが強調されていた。 事故当日、病院にやってきた時には実際に気持ちが動転していたからだろう、自分がどういう操作をしていたのかはっきり覚えていないと語っていた。事故から何ヶ月か経ってから、彼の口から直接聞いたことによれば、事故当時の車の操作は以下の様なことだった。
青信号なので右折するために右にハンドルを切った。歩行者がいるかもしれないので速度を落とそうとギアチェンジをした。その時に、手元のシフトレバーに視線を移した。そのため、進行方向を見ていない一瞬が生じた。
あのとき、ギアチェンジをしなければ、事故は起こらなかったかもしれないと、何度も悔やんでいた。全面的に自分が悪いとも言っていた。しかし、ふだんからシフトレバーを操作するときにそこに視線を移すことの危険性についてはあまり強くは感じていないようだった。 |