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山歩きのこと (1) | |
中学生の頃に山歩きの楽しみを知った。独りで歩くことが多かったが、しばしば友人を誘って奥多摩や奥武蔵、丹沢などの山を一緒に歩いた。中学三年になる頃から残雪期の山も歩くようになった。母親の知人のクライマーに手ほどきを受け、岩登りや厳冬期の冬山も歩く様になった。登攀用具も少しずつ増えていった。 高校生になると毎週のように三つ峠や谷川岳に通うようになった。もっぱら単独行でいつも8mm x 80mの長いザイルと多数のカラビナを背負っていた。この頃はもっぱら加藤文太郎や松濤明やヘルマン・ブールにあこがれていた。 大学に入るとすぐに山岳部に入ったが、大きな挫折を味わって部をやめ、それ以降大学時代は本格的な登山からは離れて、もっぱら無雪期のハイキングに時折出かけるだけだった。大学で知り合った妻とは、妻の家族からの反対を押し切っての学生結婚だった。このころ妻とは無雪期の北アルプスや谷川岳、奥秩父の山をよく歩いた。 社会人になってからは、地元の岩登り主体の小さな会に所属して、毎週のように岩登りに明け暮れた。その後、松本市に移住し毎日北アルプスを眺めながら4年ほど過ごした。東京に戻ったときはまだ30歳台の前半だった。 その後妻と二人で沢登りや冬山も歩く様になり、冬の北鎌尾根を歩いたりもした。色々なことが起こり、40歳を過ぎた頃に山遊びを止めた。このとき手元の登攀用具はすべて処分した。10足ほどあった登山靴も冬季用の衣類もすべて処分した。 その後70歳になる頃までの30年間は山に登ることはほとんどなくなった。55歳の頃に菌類としてのきのこに目覚めて、結果として妻と二人で野山を歩く機会が増えたが、軽いハイキング程度でおよそ山登りとはいえるようなものではなかった。 再び山歩きを始めたのは妻の事故死(2018/5/26)以降のことだ。7月に男体山に、9月に鳴虫山に登ったが、基礎体力が極端に落ちていることや持久力がなくなっていることを痛感した。そこで毎朝の散歩のおりに時折城山にも上がってみたりするようになり、その半年くらい後には、早朝の散歩コースに城山を加える様になった。 妻の死から既に二年半が経過した。本格的な登山ではないが、再び山を歩く様になってからは既に二年になる。この二年の間に特に山歩きのために購入した道具や衣類などはほとんどなく、山歩きはもっぱら普段着で行っている。雪山や岩登りはするつもりがないので、特に困ることはない。時折使う杖(ポール)は、30年ほど前にスキーで使っていたものを利用している。靴はふだん履きのスニーカーで、雨具にしても安物のほぼ使い捨てともいえるビニールカッパと折り畳み傘だけだ。リュックはきのこ採取に出かけるために20年ほど前に購入したデイパックを使っている。 ふだんは独りだけで歩くので、行先や出発時間はその日の気分で決まる。山行計画などといったものを提出することはない。ただ、絶対に無理はしないこと、息切れをするような歩き方はしないこと、冬場は近郊の低山だけに限ること、帰宅するまで決して気を緩めないことだけは、ふだんから肝に銘じている。 |
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