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2018年6月10日() 乾燥していてきのこはほとんどない
 昨日午前中に日光だいや川公園を長女と二人でゆっくりゆっくり散策した。公園内はどこもすっかり乾しきっていた。食事こそなんとか普通にとれるようにはなったが、連日の寝不足のためか、しゃがんだあと立ち上がろうとすると、その都度激しい立ち眩みに襲われた。
 きのこの姿はこの時期にしては珍しいほど少なく、かろうじて出会ったのはヒトヨタケ(a)、青変性のあるイグチ類(b, c)、キツネタケの仲間(d, e)、虫に食われた小さなベニタケ属(f)だけだった。ほかには乾燥で真っ黒に変色してミイラ化したきのこが随所に見られた。
 
(a)
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(b)
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(c)
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(d)
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(e)
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(f)
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 散策を終えるころ、気が付くといつの間にか、公園の一隅では障碍者フライングディスク大会が行われていて、コースには色とりどりのディスク手にした人たちが群がっていた。ふだんはグランドゴルフで賑わっているが、フライングディスクで賑わう姿をみたのは初めてだった。朝はガラガラだった駐車場は、am10:00頃にはほとんど満車になっていた。


2018年6月9日() 一人だけの寂しい食事:でも自分で作っている
 親しい友人らが残された私の食の心配をしてくださる。というのも、日常の炊事・洗濯・掃除のすべてをカミコン(連れ合い)にやってもらい、私は全く自立できず、何もしてこなかった。皆さんからは私が何も作れず、洗濯もできずオロオロしているのではあるまいかと心配してくれて、いろいろな食料を送ってくださった。本当に頭が下がる。ありがとうございます。
 そこで彼女の交通事故死の日(5月26日午後)から6月7日までの食事を写真を添えて報告を兼ねたメモを残すことにした。

 5月26〜6月1日:カミコンの事故死(5/26)の夕方から6月2日の昼までは食べ物がまったく喉を通らず、ほぼ1週間食事はとらなかった。この頃には何人かの友人らが一緒に辛い夜を共にしてくた。独りの夜はもっぱら酒を飲んで、辛さ苦しさから逃げていた。

 6月2日:この日の夕方、彼女の死後初めて食事を作って食べた。友人から送られたウナギのかば焼きを温め、玉ねぎとえんどう豆の味噌汁を作った。
 1週間何も食べなかったところに一気に一人前の食事をしたので、食後すぐに胃痙攣のような症状がでて全身に震えと悪寒が走り、その日はほとんど動けなくなった。
 6月3日:胃の違和感と随時湧き起こる痙攣様の症状が続いていたが、友人が調理して持ってきてくれた料理を昼に少し食べた。夕食は肴なしで焼酎を少し飲んだ。
 6月4日:まだ胃が変で、朝昼食はとらず、夕方に炒め物と味噌汁を作ってビールの肴にした。胃の違和感はほとんど消えて、何でも食べられそうな気がしてきた。
 6月5日:朝食と昼食を作って食べた。調理らしい調理はせずに、簡単な食事とした。夕方には肴は作らず、送られてきた焼酎をコップに四盃ほど飲んだ。
 6月6日:三食作って食べてみようと考えて、朝と昼に調理して食べた。夕食は昼の残りうどんとビールになった。やはり三食すべて作るのはしんどかった。
 6月7日:朝は冷凍保存してあった米飯をチンし、味噌汁と納豆にキムチで食べたが、飯は半分ほどしか喉を通らなかった。残りは再び冷凍した。この残りの飯を昼と夜に食べた。夜は6月2日に友人から送られた残りのウナギかば焼き(1/2)を使ってうな丼にした。
 

(6/2 夕)
(6/2 夕)
(6/4 夕)
(6/4 夕)
(6/5 朝)
(6/5 朝)
(6/5 昼)
(6/5 昼)
(6/6 朝)
(6/6 朝)
(6/6 昼)
(6/6 昼)
(6/6 夕)
(6/6 夕)
(6/7 朝)
(6/7 朝)
(6/7 昼)
(6/7 昼)
(6/7 夕)
(6/7 夕)
 昨日また長女が来てくれた。しかし彼女の体調が芳しくないため、食事はそれぞれ別々にとっている。今回は数日間の滞在だが、長女がそこにいてくれるだけでこんなにも心が落ち着くものかとつくづく感じる。数日間の滞在で再び戻るが、またやってくるという。
 昨日千葉県の御宿に住むTさんご夫妻がやって来てくれた。またウナギをもらってしまった。


2018年6月8日(金) 那須野が原公園もカラカラできのこなし
 このところ近郊は雨不足でどこもカラカラに乾燥している。きのこの姿はほとんどない。こんな時は以前だと自宅で読書をしたり図書館に行ったものだ。しかしカミコンを失って一人になった今、午前中の時間を自宅で過ごすのはとても辛い。そこできのこはほとんどないことを前提として、50Kmばかり車を走らせて那須野が原公園に行って散策した。
 予想通りきのこは皆無に近かった。それでもいかにも「らしくない」ヒトクチタケがあちこちに多数でていた(a〜d)。遠目にはどう見てもヒトクチタケには見えなかった。ほかにはヌメリイグチくらいしかなかった(e, f)。主目的がきのこ観察ではなく、わずかの時間でもよいから少しでも気を紛らわせて苦しさから逃れることだったので、きのこの有無は全く気にならなかった。
 
(a)
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(b)
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(c)
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(d)
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(e)
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(f)
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 警察から「交通事故証明書」が郵送されてきた。6月1日に警察に出向いて申請書類をもらい、必要事項を記入して郵便局から振り込んであった。申請から受取りまでほぼ1週間だった。しかし事故証明書をいくら眺めても、事故の状況は全くわからない。ただ事故当時者の氏名が記され、車と自転車が衝突したとしか記されていない。


2018年6月7日(木) 尚仁沢湧水群で出会ったきのこ
 この時期どこに行ってもきのこの姿はとても少ない。尚仁沢湧水群遊歩道でも事情は変わらない。一昨日はゆっくり歩きていねいに見て回ったが、出会ったきのこは意外と少なかった。
 ここでは遊歩道を散策しながら出会ったきのこをその順に取り上げてみた。歩き出すとすぐに倒木にビッシリとウスヒラタケが群生していた(a)。小さな橋のすぐ下の腐朽木からはサマツモドキ(b, c)とキララタケ(d)がでていた。そしてしばらくは、ミイラ化した硬質菌ばかりで、新鮮なきのこは全くなかった。やがて湧水群のすぐ近くに来るとアミスギタケがあちこちに出ていた(e, f)。他にはフサヒメホウキタケやキシメジ科の小さなきのこしか見られなかった。
 
(a)
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(b)
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(c)
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(e)
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(f)
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 カミコン(連れ合い)が事故に遭ってなくなる当日のことを決して忘れないように、2018年6月6日の「たわごと あの日のこと:悲しみのどん底へ」に書き残した。他人からみれば、単に交通事故で妻を失った哀れな男のたわごとにすぎないかもしれない。
 交通事故が無くなることはないだろう。しかし事故で人が死ねば、被害者も加害者もそれまでの生活が一変する。被害者の遺族は絶望の淵に突き落とされ決して癒されることのない心の空白に一生苦しめられる。加害者とて良心的であれば、その後終生罪悪感に苛まれることだろう。車を運転するときは本当に慎重にハンドルを握らねばならないと思う。

 友人らから送っていただいた食料のうち真空パック以外のものは大半が賞味期限切れになっていた。中には6月2日というものもあった。昨日食べたうどんの賞味期限は5月31日。でも捨てるわけにはいかない。昼に食べた玉ねぎは半分腐敗していて嫌な臭いがした。



2018年6月6日(水) 尚仁沢湧水群を散策
 朝食前に家の近郊の田園地帯を独りで5〜6Kmほど散策してから朝食をとった。am9:00過ぎになって軽自動車R2を走らせて、塩谷町の尚仁沢湧水群駐車場に車を停めた(a, b)。
 珍しく他に車の姿がなかった。歩き出すとすぐにイワタバコが群生する壁面が目に入る(c, d)。花をつけるのはこれからだが、この葉は山菜として色々楽しめる。昨年も30〜40枚ほど持ち帰って初夏の味わいを楽しんた。今年は持ち帰っても処理できないのであきらめた。
 ハイキングコース入口は急斜面を登る。すぐに急な下り階段となり(e)、橋を渡って沢筋に入る(f)。あとはあまり起伏もなくいかにも虫草が好みそうな森の中を進む。雨の後にはいろいろなキノコがでる。水音が賑やかになって木道が現れると、湧水群は間近となる(g〜l)。
 この沢筋を独りで歩いたのも昨日が初めてだったが、カミコンが一緒に歩いているような幻覚に襲われた。途中から写真クラブのような集団がやって来て賑やかになった。ハイカーの多くはペットボトルに湧水を汲む程度で、大きなポリタンクを持ってくる人はほとんどいない。
 あまりきのこはなかったが、少しだけ見られた。それらは明日の雑記で取り上げよう。
 
(a)
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 きのこ雑記の情報を手掛かりにきのこ探しをしてきたという東京のSさんご夫妻が夕方やってきた。花を頂いた。いわき時代にわが家にこられてよもやま話に花を咲かせたとのことだったが、ほとんど覚えていなかった。同様のご夫婦は直接お目にかかった限りでは他に3組ある。

 警察から連絡があり取り調べの絡みで来週また警察に出向くことになった。4〜5時間ほど時間をとってほしいとのこと。遺族年金等の請求にも必要な事故証明はまだ届いていない。



2018年6月5日(火) 初めてたった独りで歩いた奥日光
 これまで奥日光には30年以上前から通算でほぼ250回以上訪れて、湯の湖、光徳が原、戦場ヶ原、小田代ヶ原、千手ケ原、阿世潟などを歩いてきた。そのすべてがカミコン(連れ合い)と一緒だった。なかでも西ノ湖から千手ケ浜へのコースは100回ほど歩いている。
 昨日、赤沼車庫から出るハイブリッドバスの始発(am7:50発)に乗るつもりでam6:45頃家をでた。本来ならカミコンと二人でマルミノノボリリュウを探しに来るはずだった。
 am7:45に赤沼駐車場に着くと既にバス待ちの行列ができていた(a)。先頭部の人たちは7:00前から並び始めたという。一昨日の日曜日にはこの時刻に駐車場はほぼ満車で、バス待ちの行列はさらに長かったという。バスは2台出て、かろうじて一番後ろに座れた。まだ立っている人はいなかった(b)。ほとんどの人がクリンソウの鑑賞にやってきたらしい。
 終点までは行かずに途中で下車して西ノ湖方面に向かった。他にはだれも降りなかった。静かな道を歩いて橋を渡る。河川の水量がやけに少なかった(c)。西ノ湖は少し小さくなっていた(d)。千手が浜まで来ると、思いの外波が高かった(e)。千手が浜発am11:20分のバスで赤沼バス停に戻ると、まだバス待ちの行列は続いていて、駐車場は満車だった(f)。
 
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 奥日光はよく乾燥していてきのこの姿はとても少なかった。かろうじて出会ったのはヒロメノトガリアミガサタケ(g, h)、タモギタケ(i, j)、ヌメリツバタケモドキ(k)、マスタケ(l)、クヌギタケ類数種などだけだった。今回もマルミノノボリリュウには出会えなかった。

 千手ケ原の遊歩道では多くのハイカーに出会ったが、大部分が夫婦らしき二人連れだった。楽しそうに語らいながら歩く姿を見ていると、熱いものがこみあげてきて涙が溢れてきた。



2018年6月4日(月) きのこ観察で気を紛らわすことにしたものの・・・
 このところ知人や友人から段ボールにはいった食料が次々に届く。自分が料理できないことを知る友人からは、オーブントースターや魚焼きグリルで簡単に調理できるような素材がいくつも届く。皆さんいろいろ心配してくれて、本当に頭が下がる思いでいっぱいだ。
 たまたま、ご近所の親しい農家からもいろいろもらったものが冷蔵庫や台所の周辺にも多数転がっている。腐らせないよう日持ちの悪い物から順繰りに食べるようにしている。さらに連れ合いが作りかけていたものや、予定していて買い込んでいたものもかなりある。向こう2週間ほどは食には不自由せずに過ごせる状態になっている。

 連日繰り返していた事故現場の目撃者捜しをやめたので、時間がたっぷりあまるようになった。これがくせ者で、何もしないでいると、いろいろな思いがこみあげてきていたたまれなくなる。そこで、午前中はなるべくきのこの観察などで歩き回ることにした。
 これまでは、きのこの観察には必ず連れ合いと二人で行動していた。だから、家を出るときの準備からして戸惑うことばかり。冷凍バッグに保冷剤を入れ忘れる。採集袋やスコップを準備したものの玄関に置き忘れる。いざ車を発進させたはよいが、どこに行くのかわからなくなる。ただでさえ方向音痴なので、目的地まで行くのに、これまでの倍以上の時間がかかる。

 昨日も菌友ひとりと娘夫婦がやってきてくれ四人で昼食をし、とりとめのない話をして夕方まで過ごした。また、遠方からコメと焼酎などが届いた。皆さんほんとうによくしてくれて感謝にたえない。それだけに独りになる夜がとても長くかえって辛かった。



2018年6月3日() 滝尾神社と日光だいや川公園
 昨夜はアルコールの力を借りて久しぶりに3時間ほど眠れたので、死亡事故後初めてカメラを持って神橋の先の滝尾神社の杉並木を、そして引き続いて、カミコン(連れ合い)が亡くなった日の朝一緒に散策した日光だいや川公園を独りで歩いた。

 神社の杉の参道ではミヤマトンビマイがかなり大きくなっていた(a〜c)。多分きれいな姿になっているのではないかと思っていた株は、誰かが持ち帰ったらしく掘り取った穴が開いていた。他にはアミスギタケやムササビタケ(d, e)などが出ていた。
 石畳の参道を歩いていると、男と女が二人並んでいるような姿の石積みのケルンに出会った(f)。その瞬間、悲しみと寂しさが溢れてきてもうそこから先へは進めなかった。

 臆病なほど慎重に車を運転して日光だいや川公園に着くと、大駐車場にはまだ数台の車しかいなかった。歩き出してすぐにテングタケにであった(g)。先月から雨が非常に少なかったせいか、相変わらずきのこの姿はほとんどない。それでもカミコンと一緒に歩いたコースを進むと、ヒカゲシビレタケと思えるご禁制品(h, i)やスギタケ(j, k)、ヒナノヒガサ(l)などが出ていた。
 

(a)
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 昨日の午後もまた、現場周辺で数時間かけて事故の目撃者捜しをした。昨日は地域の有力者に仲介の労をとってもらい、目撃可能な家屋の住人らにも聞いて回ったが、やはり有力な情報は得られなかった。事故に遭った時刻頃の現場周辺の人や車の動きを2時間ほど観察したあとだったので、猛烈にくたびれて家まで戻るのが非常に辛かった。

 加害者が稀に見るほどよほど誠実な人でもない限り、いざ公判となると多くは証言を翻して被害者にも重大な落ち度があったと主張するものだという。なんといっても死人に口なしなのだから。被害者側でも独自に目撃証言などを得ておくことが大切だという。



2018年6月2日() 事故死から一週間
 早いものでカミコン(連れ合い)の死から今日で満一週間になる(雑記2018.5.27)。この間に娘夫婦はじめ何人もの方が泊まってくれて、辛い夜を一緒に過ごしてくれた。
 日中は市役所に行ったり、警察に行ったり、年金事務所に行ったり、郵便局に行ったり、電気・ガスなど光熱費の口座振替先の変更手続きをしたりして、なんだかんだと目先の忙しさが一瞬だけ悲しみを押し殺してくれる。でも、一人で過ごす夜は辛くて辛くて結局は一睡もできず、時折うとうとする。事故現場に残された血糊はいまだ消えず、深い絶望感が胸をえぐる。

 二人の間では以前から、いずれか一方が死んだ場合どうするかを決めていた。

(1) 葬儀は一部の親族と近しい友人だけで簡素に行う
(2) 受付は立てず施主の挨拶もせず香典は受け取らない
(3) 墓は作らず遺骨は散骨する
 このことは親しい友人や娘夫婦にもずっと以前から伝えてあった。でもまさか交通事故でこんなに早く突然に死がおとずれるとは思ってもいなかった。

 昨日もまた遠方の友人や知人から現金書留で香典が送られてきた。気持ちだけありがたくいただいて、故人の遺志を書き記して受け取りをお断りする文面を添えて、再び現金書留にして送り返した。これは結構辛い作業だ。悲しみがさらに深くなる。
 自宅近隣の方々も一様に香典を持ってこられる。多くの方は故人の遺志をていねいに説明すると納得してくださった。しかし、どうしても香典を置いていこうとする方との押し問答も何度かあった。いい加減にこういった押し問答はやめにしたい。

 昨日午後にも警察に行ってきた。実況見分の記録と加害者側の話による供述調書はできているが、まだその段階で止まっていた。事故現場周辺には事故当時の現場の状況を知りうる監視カメラのデータはなかったという。これからまだ調べなくてはならないことがあるという。



2018年6月1日(金) この際自分の身辺整理をしなくては
 娘に伴われて市役所に行ってきた。無能なダメ親からでも秀でた子はできるものだ。連れ合いの血をうけたのだろう。それにしても、人一人死ぬとなんと多くの書類を提出しなくてはならないんだろう。葬儀代もそうだが今の日本じゃ死ぬにもずいぶん金がかかるのだと知った。

 自分は飽きっぽくて関心のありかが次々と変わり、その都度興味の赴くままに色々な分野に深入りしてしまう。そのせいで専門書や関連機器などのオモチャがどんどん増えていった。今は全く使わなくなったものや、同じような似通ったものが随分と増えていた。
 すべての部屋に最低一セットのパソコンが鎮座している。Garminの専用GPSを数え上げたら3台もあった。それ以外のメーカーのGPS機器もあった。二人とも電話はガラケーを使ってきたが、自分の周りにはSIMフリーのスマホが3台もあった。いずれもいわゆるスマホとしてではなく、携帯用小型コンピュータとして利用していたけれどもね。

 改めて部屋の中を見回すと、寝具や衣類と暖房器具を除けば、なんと家財類の大半が自分のオモチャだった。連れ合いのオモチャといえば、500冊にも満たない書籍とよく使い込まれた調理器具類だけだった。彼女は料理が好きでしかもとても上手だった。二人の間で共通の遊びであった菌類関係のオモチャを別とすれば、彼女の持ち物はなんと慎ましやかだったのだろう。

 いずれ時間がたてば遺品整理などもしなくてはならないんだろう。でもそれ以前に自分のオモチャを減らしていかなくてはならない。わが家は年金生活家庭だったが収入の大半は彼女の年金だった。今後はささやかな自分の年金収入の範囲で生きていかねばならない。



[節目]

2018年5月26日浅井淑子 交通事故に遭い死亡
2017年1月きのこ雑記 を廃して、日々の雑記 として再出発
 「きのこ雑記」は「こけ雑記」と並ぶサブ・サイトとした
2017年1月こけ雑記 再開
2015年6月26日福島県いわき市から栃木県日光市 へ転居
2012年1月26日埼玉県川口市から 福島県いわき市へ転居
2006年7月こけ雑記 開始 (2011年8月 中断)
2001年4月今日の雑記 開始
2000年11月きのこ雑記 開始

[過去の雑記]

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2011 中下 中下
2010
2009 中下 中下
2008
2007 上中
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